ひとびとが力強く、自分の進路に誇りを持っていけるような社会環境を作り出すためには、成功例が、すなわち、未来の世代が将来に期待できるような、確たる事例が必要である。そのような強靭な社会とは、すべての人を包含し、その人々に機会と安全とを提供できるもののはずである。(ニュージーランド首相 Hon. Helen Clark、2001)
インクルージョンはさまざまな形式を取り得るし、また実現される環境も多岐にわたる。本稿で述べる、ニュージーランド、アオティオラにおいても、その定義に公式なものは存在しない。ただ、学校におけるインクルーシブ教育に関しては以下に述べるような、広く支持されている原則があるということはできる。すなわち、
インクルーシブ教育においては、学習者のそれぞれの必要に応じた教育機会を採用していけるプロセスが重要であり、このような環境重視のアプローチをする場合は、学習する側の能力と欠点よりも、それに応じて何が達成可能なのかということに力点がおかれるべきである。
インクルージョンということが社会通念として定着するためには、正しい理解と価値観、信念が構成員のあいだに共有されることが必要である。その実現のためにもっとも重要なことは、おのおのの目標を達成しようとするすべての学習者が相互に啓発しながら学ぶという機会が存在することであろう。インクルージョンの実現には、インクルーシブな“普通”教育システム、インクルーシブなカリキュラム、インクルーシブな学校政策、そしてそれを支援する人々のネットワークが、相互の協力を通じて実現され存在する必要がある(Quinn & Ryba, 2000)。
視覚障害児に対する社会支援ということについては、ニュージーランドは幸いなことに長い歴史を有している。その過程は1891年に創立されたオークランドのパーネル盲児施設(訳者注1)にさかのぼることが出来る(Mitchell & Singh,1987; Nagel,1998)。それ以来数十年にわたって視覚障害児に対する教育は一般生徒の教育システムの中に組み込まれてきた.その実例としてMという生徒の手記を以下に掲げる。1950年半ばにこの施設における初等教育課程を終えたのち、中等教育課程では通常の教育機関に進学した例である。
「私が学校に入ったのは5歳のとき、パーネルロードにあった盲児施設のレンガづくりの建物でだった。母親が私を引き渡したあと、何か叫んで、白いエプロンをかけた保母の胸に押し付けたのをぼんやりと視覚にとどめている。彼女はとてもよくしてくれたが、ここから自分の勉学と施設での生活がはじまった。私の家族はホーキーズ・ベイでの絆を断ち切ってオークランドへ引っ越してきた。兄は新しい学校へ編入し、父は仕事を探さなければならなくなったわけだ。」
「私は週のあいだは施設の寄宿舎で過ごすことになった。月曜日の朝、父親が仕事に出かけるときに電車で私を施設に送ってくれ、金曜日の午後になるとまた家へ連れ帰ってくれることになったが、これはとてもありがたかった。いろんな人が言うような、すなわち朝6時半のベルで起床したら鉄の階段を駆け下りて磁器の洗面器で顔を洗い、浴室ははタイル張りで音はこだまするし水は冷たく、靴が汚いと日に3度も4度もみがかされるし、食べ物ときたらまずいしといった施設の生活だった。私は、いま思えばとても感情の激しい子供だったようだ。ときどき、おなかが痛いふりをすれば、こんな生活から逃れてベッドにいられると思ったりしたものだ。だから月曜日の朝になると学校にもどらないといっては母親にたてつき、私を送り出すのは彼女には大変な苦労だった。」
「だがそうはいっても、5歳のときから私は点字を習い始めた。そのころは点字のアルファベットをあらわすピンの植え込まれたボードを使って遊んでいたが、学校のいすの背中には板が張ってあった。なぜなのかと尋ねてみたところ、視力が多少ある子供には目でなく指で点字を覚えさせるために目隠しをして頭をいすにしばりつけたのだが、そのための板だということだった。当時はこのようなやり方で点字を教えていたのである。」
「私自身、はじめは多少の視力があったが、小さいときの記憶は幼児性緑内障の苦痛ばかりである。7歳のとき、教育を9ケ月にわたって中断して目の摘出手術を受けた。」
「8歳のとき、タッチタイプ(訳者注:キーを見ないでの入力)を習うことになった。アンダウッドのタイプライタの前に座ってASDFGなどと打つのが誇らしく、運指の練習を何回もやったものだ。また北島、南島の地形が小さな鋲であらわされた浮き彫り細工の地図があったが、私は地理がとても好きで、この地図の読み方を習い、いろいろな場所を探しては喜んだし、今でもそのことをよく覚えている。」
「学校の校長はマオリ人だったがとてもいい人で戦争の話をしてくれたし、午後になると彼かあるいは先生でもある素敵な奥さんが新聞を読んでくれるのだった。それにもうひとり、年配の先生がいた。幼いわれわれを信用してくれた、すばらしく聡明な女性だったが、教えは厳しく、綴りは正確にしなければならなかったし、暗算でもできませんではすまされず、“もいちど、はじめからやり直しなさいといわれたものだった。つまり彼女はわれわれの能力について非常に高い期待をおいていたということだろう。」
「記憶力を高める練習もあった。毎日の日課のはじめにお祈りと賛美歌があり、賛美歌を2,3節歌うのだったが、その賛美歌の文句を完璧に暗記させられる。これがその日の第一のレッスンで、教室へ帰ると今度は賛美歌に出てくる言葉を翌日の朝までに勉強するというやり方だった。それから暗算の勉強があり、綴り方を勉強するという風にして基礎を学んだ。」
「定位・歩行についてのレッスンはなく、遊戯の時間は文字通り遊戯で、マヌーカの樹でつくったスティックでタイヤを転がす遊びをしたものだったが、これが歩行の練習だったのだろうが、当時われわれはそんなこととは知らなかったわけである。ほかには古いフットボールをもらってこれをジムの天井めがけて蹴り上げる遊びもあった。ボールが跳ね返って落ちてくる音でどこにあるかを探し当てる。こうしてボールの後を追うことを覚えるのだが、うまくいけばもう一度蹴ることが出来るのだが、だめなら蹴れないというわけで、これが励みになった。それから糖蜜の5ポンド入り用の缶をもらってきてマヌーカのスティックでホッケーもやった。1時間か2時間もすると缶が丸まってボールらしくなり、どこにいったか、どっちからくるかを音を聞き分けて追いかけていくのだ。木登りの出来る樹もあって、順番に背中に乗ってコックファイトとよぶ遊びもした。我々なりの面白い遊びをしていたわけだ。」
「夜になると私は大変だった。オネショだったのでいつも面倒を起こしたし、いやな夢もみたり散々だったがそれでも学校は面白かった。」
「私が12歳くらいになったとき、もうオークランド・グラマー・スクールへいけるのではないかということになった。その前に何か試験があったように思うのだが、そのときはそれが何でだかを知らず、結果として3,4人のグループの中に選ばれて中学へ入学した。まだ施設の寄宿舎に入っていたが毎朝8時15分になるとかばんを持って学校まで歩くのだった。」
「私はこれはすばらしいメインストリーム教育だったといわなければならないと思う。自分では自信もなく、実際にはようやっときりぬけたという程度だったが、先生はみなすばらしい人たちだった。われわれはものすごく騒々しいステインズビイ点字ライタ(訳者注2)を使ってノートをとった。先生のほうは黒板に書いたことを私のために読み上げてくれるのだった。すみませんがもう一度読んでくださいと言わなければならなかったことは一度もなく、ときどきは先生のかわりに隣に座った生徒に読ませることもあったが、ほとんどは先生自身が読み上げてくれた。私はノートをとるときに機械が大きな音を出すのでとても申し訳なく思ったが、ほかの誰よりも早く書けたのがせめてもの救いだった。私が終わってからみんなが追いつくのに30秒はかかったからである。」
「私が得意だったのは歴史、地理、それに少し劣るが英語といった科目で、習い、読み、覚えるということがものをいうものだった。これに比べて図式的で公式だとか位置など視覚に訴えることの多い科学系は苦手だったが、自分の知識程度を嘆いたのは数学だった。算数の段階はまったく問題がなかったけれども代数や幾何になると、その概念をつかむことすらできなかったが、これは自分自身の欠点だった。つまりこの分野での基本的な適性がなかったのだろうし、たとえ教育の方法が変わったとしても、その問題を解決できるとは思えなかった。結局、私は数学をあきらめ、ひたすらに暗記学習でできる商法などのようなものに進むことにした。」
「このころには、自分たちが得ていた施設からの支援をふたたび受けるようになっていた。教員養成大学の学生たちが宿題を助けてくれたり、文章を読んでくれたりしたが、それは物事に取り組むやり方を変えるというような意味での支援ではなかった。もうひとつ、決定的に劣っていたのはフランス語で、単語や文章を翻訳するのにかかる時間はどうしようもないほどだった。私がもっていた教科書の1冊はフランス語で書かれていたのに、私の実力はCをやっととれる程度だったのだ。ほかの教科書は教室で読み上げられたものと自分たちでとったノートだけで、しかも我々がとったノートたるや膨大なものになっていた。イーストライトのフォルダは手書きとステインズビーで打った点字のノートでいっぱいだったが、それだけを頼りに試験に必要な情報をかき集めたものだった。」
「そうこうしているうちに上級の学校へ進むようになって、ロンドンの理学療法学校へ進める可能性がでてきた。盲目の学生専門に開かれている学校である。ここへ入学するためには大学入学資格を取るか、物理学で大学入学試験を受けなければならなかったが、物理担当の先生のひとりが私に特訓をしてくれることになって、なんとかしのぐことができた。オークランド・グラマー・スクールとしてもなんとしても成功させたかったのだと思うが、おかげで私は大学へ進み、教育、心理学と哲学を1年間学び、第三段階の学校についていけることを立証することになった。しかしこれはとても孤独な1年だった、というのはここでもステンズビーの機械を使わなかったからである。テープレコーダはまだ市場に出たばかりで馬鹿でかく、とても教室に持ち込めるようなしろものではなかったから、私がノートをとるのに使ったのはハンドフレーム、つまり鉄筆を使って枠に書いていく方式で、なんとか切り抜けることは出来たが、大学で過ごした時間については非常に不満足だった。」
「その後、私はロンドンの王立盲学校の理学療法科へ進んだが、これは大変にうれしいことだった。必要な本は何でもあり、講義は少人数で、有能な教授もいて、その上“経験学習”のコースがあった。私は束縛のない学習を楽しんだ。リソースはすべて身近にそろっていたし、もちろん、ロンドンで生活すること自体が刺激だった。ホームシックにもなったし貧乏ではあったけれど、ある意味ではそんなことはどうでもいいことだった。」
「私の教育を受けた過程とその後の展開について振り返ってみると、自分は内気な子供で三十もなかばになるまで、不安感を克服することはできなかったように思う。余暇を楽しむ余裕もあまりなかったが音楽は好きで、バンド演奏に加わるというようなことはしたものだ。友人も多くは出来なかったが、それは寄宿舎にいる身分であったし、中途半端な存在だったからだ。女性との交流やそのほかのことも非常に限られていた。したがって、社交的な部分については、人生後半になってからの経験の積み重ねによったものだといえる。」
「今日の教育制度についていうならば、われわれが追及すべき点は読み書き能力を鍛えること、理数的なセンスをもつこと、および移動に関して自信をもたせることと、自分の身の回りの始末が自分で出来るようにすることであり、知識欲をもつと同時に必要なリソースがどこにあり、どうやってそれを手に入れられるかを知っていることも重要であろう。また、通常の教育カリキュラムとの比較はきわめて重要だと思うが、それは我々が現在生きているこの激しい競争社会にあっては、それと足並みをそろえておかなければならないからである。好きか、嫌いかといったレベルの話ではなく、自分で職を得ようと思うならば他人との競争に加わらなければならないし、そうであるならば、そのための技能と能力をみがかなければならない。その一部は他人を知り、他人とわたりあう能力をもつことであり、現実の社会の只中で生活することである。ショックを受けることに耐え、偏見と戦う能力をもたなければならないということである。」
「自己を評価する能力をもつことも重要であるけれども、同時に将来について明るい考えを持つことも同じように重要である。自分にどんな潜在能力があるのか、どんな点に優れた能力が発揮できるのかを知り、優位性を育てるやり方とも言える。すなわち、やりがいである。成功体験ほど成功をもたらすものはない。」
「自己自身を主張できる能力は必要である。私が思うに、自分を主張する、そのときに、もっとも他人が受け入れやすいやり方でそれをこなすことのできる能力が重要なのである。たとえば、やんわりと“すみませんが、私にはちょっとわかりかねるので、もういちど教えていただけませんか”あるいは“もう一度くりかえしていただけますか?”といえる能力のことである。なぜなら、ほかのすべての人たちが自分を完全に理解しているというようなことはまずないし、私の経験でいえば、自分のいうことは過小評価されるか、逆に過大評価されるかのいずれかであり、まあまあ正しく理解してくれる人の方が稀なのではないか。だから自分の言いたいことのレベルと実際に言っていることとの間のバランスをとり、現実を理解し、自分の強み、弱みのありのままを知る能力が必要とされる。自分を信用してくれる人たちがまわりにいるということ、そのことが教育と自己開発にとってもっとも重要なファクタであると私は思っている。」
今日では視覚障害を持つ生徒のほとんどが地域の学校で教育を受けるようになっているが、これは通常の環境下で各地域社会の支援を受けることに力点をおいて構築されてきたインクルーシブ教育のおかげであるが、これを支えているのは、ニュージーランドの教育および人権に関する諸法律、特殊教育に関する政策およびガイドラインと身体障害者に対する国家戦略である。
身体障害者に対する偏見に満ちていたニュージーランドで、アオティアロアの街をインクルーシブな環境に変えた長期戦略は、“ニュージーランド身体障害者戦略―世界を変えよう”(オランガ、Ministry of Disability Issues, April 2001)に詳しい。ここでは地域社会での全員参画を実現することに対する障壁はなにか、その中で戦略を立てるには如何にすべきかが明確化され、15項にわたる目的が定義されている。それらはすべて意味のあるものであるが、その中の5項目が特別の措置を必要とする子供たち、その家族および親類の人たちに直接関連する内容が取り上げられている。
また教育ということを広い意味で捉えたものとして“ニュージーランドにおける教育の優先順位”(Mallard, May 2003)は、教育効果の向上と不公平の是正を指向した目的と戦略について述べている。この中では注力すべきものとして4項目があげられている。
ニュージーランドにおいては、5歳から19歳までの学習者は公立の学校へ無料で入学 し、教育をうけることができる(21歳まで延長可能)。また教育法(Education Act, 1989)はその第八条において、教育を受ける上で特別の措置を必要とする人々はその必要がない人と同様の条件で公立の学校に入学し教育を受ける権利があると規定している。したがってすべての学校は、個人の能力のレベルに関係なく、すべての学習者に適切な教育を施す法律上の義務を負っているし、このことは人権法(Human Rights Act, 1993年制定)もその57項でこれを支持している。
国の教育ガイドライン(National Education Guidelines)は、個々の学校ベースで学習とその達成を阻害する障壁の有無を分析し、学習者の障壁となっている事項を克服するために必要な手段を開発、実施し、その生徒の達成度を評価することを要求しているのである。
一方、ニュージーランド教育カリキュラム・フレームワークは次のように述べている。
この目的は、すべての学校がインクルーシブなものであり、すべての学習者を受け入れるためである。
法律、ガイドラインあるいは学校の方針がインクルーシブ教育の枠組みを提供する一方、インクルージョンを実現するためになくてはならないのが、学校において高度のリーダシップを発揮する校長と学級の教員である。Bishopは1986年実施の研究の結果として学級の担任教師こそ、視覚障害を持つ生徒を成功裏に通常の学校教育に合流させるためにもっとも重要な立場にあると述べた。教師の態度やふるまいは子供との交流や彼らに対する期待などに影響を与える。学級であたえられた何か責任ある仕事、暖かくフレンドリな指導や支援、いつも助けられるばかりでなく他人を助ける機会を与えられること、高いけれども実行可能な期待、危険を覚悟でやった失敗から学ぶこと、個人で、あるいは仲間と一緒になにかを援助する機会、そういったものに積極的に反応するのは、視覚障害を持つ子供たちであっても他の多くの子供たちであっても同じことである。そして多くの学習者が持つ、もっとも大きな弱みは自己に対する尊厳の欠如なのである。教師の積極的な態度と子供に対する信頼こそ重要であり、かつ永続的な効果を持つものといえる(Neilson, 2000)。
視覚障害児の教育は、普通教育と特殊教育とが協同して働くことによってなりたつ。ニュージーランドにおける特殊教育は今まで大きな変化をしてきたが、今後ともそれは続くことだろう。この国の政策、制度の根源は1989年に導入された教育改革にさかのぼり、“明日の学校”(Lange, 1988)とよばれたものである。全体としてみると、この変化にはいくつかのパラダイム・シフトとでも呼ぶべきものを包含している。すなわち、それまで医学的見地から考えられていた特殊教育のニーズを環境的モデルに置き換えたこと、二者選択的であった教育制度をインクルーシブなものにしたこと、管理を中央集権型から分散型にしたことなどがそれである。これらが目的としたことは教育上特別なニーズを要する子供たちの教育効果をあげること、地域の学校に受け入れられること、各種プログラムの提供に柔軟性を持たせることでより効果があげるようにしたこと、学習環境のいかんにかかわらず、ニーズの水準に応じて教育リソースの適正な配分を受けられることなどである(Mitchell, 2000)。
アオティアロアにおいては、特殊教育の就学基準は2000年度特殊教育ポリシー(Ministry of Education, 1996a)に基づいて決めているが、このポリシーはすべての生徒に同じ品質の学習機会を与える、世界水準のインクルーシブ教育制度を提供しようとしているものだけに複雑で相互に影響しあう規定を包含している。このポリシーは1996年制定以来、段階的に導入が図られてきており、視覚障害児に関する部分には次のようなものがあげられる。
2000年度特殊教育ポリシーの導入によって、支援サービスに対する資金供給のやり方やアクセスの仕方などが非常に大きく変わることになった。たとえば教育省の補助金はサービスの提供者へ直接わたるのでなく指定の資金管理組織へ行くようになったし、ORRSで規定した教師のリソース(フルタイムの教師の0.1ないし0.2人分)は該当する生徒のいる学校へ直接割り当てられるようになった。これらの意図するところは、学校ごとに、個々の特殊教育のニーズにあわせて適切なサービスやリソースを購入するようにすることであり、中程度のニーズを持つ学習者に対するリソースの確保である。
アオティアロアには1,234人の視覚障害を持つ子供や青少年がいる。全盲、弱視、盲ろう、およびこれらが複雑にからみあったニーズを持つ人たちである。これらの子供たちの人種的文化的背景はいろいろで、マオリ、パケハ(ニュージーランド生まれヨーロッパ系)、パシフィック系、アジア系、ヨーロッパ系、アフリカ系などがいるし、年齢的には新生児から21歳までにわたり、教育程度もまちまちで能力開発や教育に関するニーズも千差万別といえる。居住している地域もコズモポリタンな環境もいれば、地方の小さいコミュニティもあるという具合である。
別表に示すセクタとよばれる区分ごとに、教育ニーズに応じて利用することのできる選択肢が決まってくるので、学習者たちはその学齢期中、いろいろな組み合わせで教育の場を移動していいことになる。幼児期に利用できる仕組みにはプレイセンタ、幼稚園、コハンガ・レオ(マオリ族のための就学前教育機関)、母国語ごとの集まり(Language Nests)、早期指導センタ(Early Intervention Centre)などがある。学齢期になると学校の仕組みは小学校、中学校、クラ・カウパパおよび特別学級がある。義務教育期間をみれば67%の生徒は通常の学級に通っており、19%は通常の学校に併設されている特別学級に、そして14%が特別学校に行っている。子供が指導を受ける方式としては個人教授、小グループ制、通常のクラスに分かれる。
表1は、教育セクタ、資金配分区分、コミュニケーション手段などの別に子供の分布をしめしたものである。
表1 |
|
教育セクタ別 |
|
幼児 |
235 |
小学校 |
631 |
中学校 |
359 |
上級へ移行中 |
9 |
|
1,234 |
資金区分別 |
|
ORRS(高高度) |
378 |
ORRS(高度) |
316 |
Moderate needs |
305 |
Early Childhood |
235 |
|
1,234 |
コミュニケーション手段別 |
|
点字・触覚s |
91 |
デュアルモード(点字& 普通文字) |
19 |
普通文字 |
585 |
各種記号など |
539 |
|
1,234 |
|
|
これらの学習者は健常者であるクラスメートが受けると同じレベルの教育を受ける権利を持ち、また要求をすることができる。すなわち、差別なくあらゆる教育内容に平等に接する機会を与えられるべきであり、それは目に見える世界の事象、情報、教育カリキュラム、知識、および人間関係に平等に接することを意味する。
視覚障害を持つ学習者に対する全体的なカリキュラムはふたつの部分から構成されている。第一はすべての学習者を対象にした普通カリキュラムで、アオティアロアにおいてはテ・ワリキ、幼児初期課程(Early Childhood)(Ministry of Education, 1996b)、ニュージーランド教育課程フレームワーク(New Zealand Curriculum Framework)(Ministry of Education, 1993)という3つの仕組みを通じて実施される。第二は拡大コアカリキュラムで、視覚障害児に特有の問題に対応するための知識技能の中心をなし、通常の教育課程へのアクセス、および自立のための技能開発のためのツ−ルを提供するものである。このなかには言語およびコミュニケーション技法、点字または普通文字による読み書き能力、聞き取り能力、概念の形成能力、視能率,身体能力、定位・歩行、社会的スキル、生活技術、および補償技術などが入ってくる。
拡大コアカリキュラムと通常のカリキュラムとの対応を表2に示す。テ・ワリキおよびニュージーランド教育課程を学ぶには専門のスタッフの手を借りることになる。これらのサービスを提供していくためには、効果的で協力的なパートナシップの存在が不可欠であって、次のようなかたちでのパートナシップが考慮されなければならない。
個人ひとりひとりのベースで適切な教育が展開されることを確実にするために用いられる手段がIEP(Individual Education Programme)である。これは両親と専門家が学習者の教育の進め方や学習すべき事柄、あるいは必要ないろいろのプログラムなどについてチームを組んで事に当たる機会を提供する。
このチーム方式は関係者のいろいろな見方、考え方を、明確な目的と達成目標に焦点を当て、教育環境とより広い社会のなかでまとめあげていくのに役立つ。教育省が発行しているIEPガイドライン(Ministry of Education, 1998)はこのプロセスを進めていくのに必要なサポートを提供してくれる。
このような教育プログラムを活用するのであれば、次に述べるような準備が必要である。
表2 |
|
拡大コアカリキュラム |
一般教育課程 |
点字文字を用いて |
母国語、外国語を学ぶ |
点字数字を用いて |
数学を学ぶ |
点字音符を用いて |
芸術を学ぶ |
空間概念の発達、生活技術、定位・歩行を身につけて |
体育、保健衛生、生活向上技能を学ぶ |
概念を把握する能力の開発、視能率および各種の技術の支援をうけて |
すべての一般科目を学ぶ |
聞き取り能力、社交能力の支援を受けて |
コミュニケーション技能を学ぶ |
組織的能力、管理技術の支援を受けて |
自己管理能力を養う |
社交能力について支援を受けて |
社会との協力技能を学ぶ |
以上のサービスやプログラムの実施にあたって中心をなす視覚リソース指導員の人たちで、12箇所の視覚感覚リソースセンタ、国立ホマイ盲学校、王立ニュージーランド盲人協会の幼児サービスおよび教育省特殊教育グループなどに配置されている。
視覚リソース指導員の人たちは家族や教師との連携関係を通じてすべての教育機関に支援活動を行うが、そのもっとも基本的な役割は学習者にこのカリキュラムを知ってもらい、参加させることである。このためにおこなわれることは以下に示すように多岐にわたっている。
国立ホマイ盲学校が提供するサービスには、視覚障害および高難度の障害を持つ生徒に対して個々のキャンパスごとに実施するプログラム、若年層の人たちが社会生活を始める場合の移行プログラム、国の評価・教育サービスを通じた通常教育機関で学ぶ学生への支援、および寄宿や訪問サービスなどがある。現在、同所はそのサービスを全国に展開し、より緊密かつ調整のとれたものにすべく、戦略的な展開を模索しているところである。
一方、王立ニュージーランド盲人支援基金は次のような方法を通じて生徒を支援する。 すなわち、
教育省特殊教育グループ(GSE)は心理学者、セラピスト、特殊教育アドバイザなどを、視覚障害児固有のニーズに直面している学校に派遣し、支援活動をおこなう。また視覚リソース指導員はGSEの早期治療チームと共同し、乳幼児に対する支援をおこなう。
文部省はまた毎年、奨学金のかたちで視覚障害児教育にかかわる教職員の自己開発に対する資金援助をする。オークランド教育大学では、1年間のコースの卒業者に視覚障害者教育(ESVI)学位を授与しているが、このコースはキャンパスででも、キャンパス外ででも取得できるように配慮されている。このほか教育省では担当教師、専門職員の専門教育もおこなっている。
国レベルでいえば、学習者のための教育をさらに強力なものにすべく、前記したセクタのレベルでいろいろな団体が教育の水準を高めるために協力体制を敷いている。それらの団体とは、視覚障害者親の会(Parents of Vision Impaired, PVI)、視覚障害教育教師連盟(Association of Teachers of Learners with Vision Impaired, NZATLVI)、視覚障害市民連盟(Association of Blind Citizens, ABCNZ)、国立ホマイ盲学校(Homai National School for the Blind and Vision Impaired, HNSBVI)、視覚感覚リソースセンタ(Visual and Sensory Resource Centre), 王立ニュージーランド盲人協会(Royal New Zealand Foundation of the Blind, RNZFB)、および視覚教育局(Vision Education Agency)などである。
これらの団体は貴重な知識や技能の提供を惜しまない、幼児児童の教育に熱心な会員の全面的なバックアップを受けている。
このような、セクタレベルでの協力の成果として得られた活動のおもなものを示しておく。
“ニュージーランド、アオティアロアにおける視覚障害学習者に対する国家計画”(Nagel & Weils, 1998)には専門家によるサービス提供の状況が説明されている。
同書はこの問題に関する基本的思想について述べ、その傾向を論じた後、インクルーシブかつ整備された計画を実現するための17項目にわたる原則と達成すべき目標について述べている。それらの主なものはつぎのとおりである。
上記国家計画を達成するために非常に重要な要素と考えられたのは、効率よい総合調整を行う部署としての視覚障害教育局の創設であった。その主な機能は教育セクタのニーズを政府当局へ伝え推進すること、国家計画の各ゴールが達成されるよう支援すること、行動基準および模範例によるガイドラインを設定すること、学習者について国家規模でのデータベースを構築すること、拡大コアカリキュラムを開発し、公式に認知してその浸透を図ること、および両親への相談をおこなうことなどである。
「拡大コアカリキュラムガイドライン」(Ministry of Education & Vision Education Agency, 印刷中)はニュージーランド、アオティアロアにおける状況を現時点での実践例を述べ、拡大コアカリキュラムの教え方、学び方へのガイドラインとして詳しく述べている。この主たる目的は視覚障害児の教育に専門に携わる人々の現場での参考とすることであるが、本書は拡大コアカリキュラムの中で、学習者の特有のニーズ、パートナシップを通じた教育、結果の評価、および教室環境という文脈で位置づけている。
続いて刊行された、「教育へのアクセス」(Ministry of Education & Vision Education Agency, 2003)は、視覚障害が中程度の学習者を教える担当教師に対する実践例によるガイドラインである。
また 「早期教育」(The Early Years)は両親向けに刊行される3部作の第一号ある。このシリーズは「学童期教育と移行」というタイトルのものを予定していて、“最初の先生”としての両親にその役割を助けるための情報を載せる。前記視覚障害者両親の会(Parents of Vision Impaired, PVI)との協力の下で刊行される。
国家レベルデータベースの創設
視覚障害を持つ学習者のデータベースが国レベルで開発され、以下のような分野で役立つと考えられる。
これらのデータの分析によって、政府機関や省長官に対して行われる学習者の現状、および将来像についての情報をより正確なものにすることができる。
さて、これらの法制や政策やその実行結果は現在の学習者たちにどのような影響をもたらしているであろうか。
前に見た、少年Mのときから50年以上が過ぎたことになるが、ここで厳しい人生の旅立ちを始めなければならなかった11歳の少年サムの例を紹介しよう。サムは未熟児で、そのために網膜症にかかり失明するに到った。母親のジャスティンは現時点までの経緯と、うまく行ったことや試練だったことを交えて以下のように述べている。
「サムは成長し、とても優秀な子供になりました。目が見えないということを除けば、すべてうまくいっているし、すばらしい子供です。成績もクラスでは一番で15歳向けの本もちゃんと読めます。ですがここまでは決して楽ではありませんでしたし、大変な仕事をしなければなりませんでしたが、その結果が今に結びついていると思います。
サムは学校が好きで、友達ともうまくやれます。私たちはこれまで、彼がまずひとりの子供であるということを前提に育ててきました。だから、目が見えないことはたしかに子供に影響はあるけれど、決してそれが最大の問題だとは考えていません。一方、彼もほかの子供たちと何変わることなしに行動すべきなのです。ですが私の母親はそうは考えられなかったようです。彼女はサムを叱ったり、ぶったりしてはいけないと主張しました。私は“必要なら何でもするわ。そうしなければサムはスポイルされて誰も相手にしてくれないような子供になってしまうからね”といいました。ご覧のとおり、そうはなりませんでした。」
「2003年の今、サムは地域の学校に通っていて、年相応の学力があります。点字がわかるしタイプも打てます。勉強が好きで、毎週、才能がある子供、独創的な子供を育てる特別コースにも参加しています。音楽が好きで学校の演奏会にも参加します。いま楽器をひとつ習っていますがほかにもやりたいものがたくさんあるようです。学校が好きだし、家族や友達を大切にする子供です。」
それでは、少年としてMとサムに共通するものは、一体なんだろうか。ほかの子供たち同様、学ぶことがとても好きだった。また、ふたりとも幸いなことに彼らを信じていて、何かやりたいといえば、いいじゃないか、やってごらんと言ってくれる両親を持っていた。そして共通にいえることはまわりの人々、先生たち、世話役の人たち、サポートをしてくれる専門スタッフなどが、彼らは何でもできるし、能力いっぱいにやる権利を持っていると信じてくれたことだった。
Mのときと同じように、サムの家族は適切なサポートを得るためには親類と離れて住むことを決断しなければならなかったが、これはニュージーランドのように広い土地に人口が分散している国ではいたしかたないことだった。一方、Mとちがっているのは、視覚障害児教育の専門家からのリソースとサポートをあてにすることができたということである。これについて母親は次のように述べている。
「サムは1歳のときから早期指導をはじめましたが、私は幼児教育のトレーニングを受けていましたから、何をしてほしいかがわかっていました。多分、1歳の段階までに視覚リソース指導員の方が訪ねてきてくれましたし、未熟児関連のほうでは神経発達セラピストも来てくれました。それから王立ニュージーランド視覚障害者支援基金のソシアルワーカーの人と相談して、早期指導センタに行くことになりましたが、神経発達セラピストの人はこれには反対だったようです。彼女はそれは自分の仕事だと考えていたからだと思いますが、治療する人が違うとこのような摩擦は覚悟しなければなりません。
そこでサムがひとつのときから、センタに週2回通いました。言語セラピーと認知ラピーを1回ずつつけました。そこには遊び仲間もいましたから、社交スキルのほうも学べたことになります。このグループは特別の支援が必要な子供だけでなく、その人たちの兄弟もいましたから、ふたつのちがった世界の両方を知ることができたのは、今考えてみるととてもいい橋渡しになってよかったと思います。
そうしているうちに私はそこでマネージャとして働くことになりました。特別なニーズのある子供たちにとって良いことだし、そのサポートはそういう子供を持つ両親こそ必要だと思ったからです。
目が見えないからといって目が見えない子供とだけ付き合えばいいというものではありませんし、これは(目の見えない子供の)両親にとっても同じことです。このようにしてサムは4歳になるまでセンタにいましたが、いっぽうで2歳半のときからプレイセンタへも行かせました。これは普通の子供たちが行き始めると同じ時期です。ここには保母が一人いましたが、フルタイムではありませんでした。私はこのやり方に大賛成でした。というのはその時点で私は視覚リソースセンタのあり方に対して違った考えを持つようになっていたからです。私はサムをプレイセンタに入れましたが、幼稚園にやるつもりはありませんでした。もし幼稚園へやれば、なにしろ45人もの子供がいるのですから、どうしてもサム専属の保母が必要になってしまいます。これに対してプレイセンタは幸い子供の数が15人と少ないうえ、大人の人も4,5人いましたから、専属の先生にいていただく必要はなかったのです。私は彼に専属の先生がいないほうを望みました。そうでないと大きくなるにつれ、そのような(もっと多くの保母さんや保母さんとかかわる時間)助けがいるようになることがわかっていましたから、彼にはそうでなく子供同士の付き合いをしてもらいたかったのです。」
サムは3箇所の小学校へ通うことになるが、これはジャスティンが彼のニーズに合致し、しかも彼が自分の能力に挑戦できるような教育を捜し求めたからである。
「....3番目の学校はそれはすばらしいところでした。私の考えでは、視覚障害を持つ子供に対する環境としてはこれ以上のところはなかったと思います。担当の先生、視覚リソース指導員(RTV)、それに補助の先生が2年間、チームを組んでことにあたってくれました。担当は2年間変わりませんでしたが、サムはこの先生ととてもうまくいきましたので、この学校へとてもうまくとけこめました。この先生は新任でしたが、補助の方はこの学校には長くいたので楽でしたし、彼女は点字を勉強していました。そんなふうに本当にうまくいって、これ以上のことは望めないくらい、完璧でした。RTVは宿題をほかの生徒より早く手に入れて点字に直してくれましたから、サムはほかの生徒とまったく同じレベルから始められましたし、そのことはみんなも納得して彼にとっては当然と考えてくれました。担当の先生はとてもクリエイティブな方で、ダンスにエアロビクスに大騒ぎもすればなんでもするというふうでしたが、これは彼もすべて一緒にやらされました。
それから定位・歩行訓練がはじまり、特別教育サービスの補助金も出ましたから、道を横断するとかそういうことも学べました。」
「サムは交通整理がやりたくてたまりませんでしたが、これをやったとき、我々はその場にいあわせなかったので彼はとてもがっかりしました。先生のひとりが彼には無理だと言ったのです。そこで私たちは彼がとてもやりたがっているし、絶対にできますということをねじ込みました。婦人警官のほうは迷惑そうでしたが、私たちは交通整理のちょっとしたことでいい、障害物をどけるようなことならできると主張しました。サムはとても喜びましたし、いろんな人たちと大変仲良しになりました。いろんな人から話しかけられたり、お年寄りが通りがかりに喜んでくれたりというようなことです。こんな具合で万事がうまくいきました。この小学校の最後の2年間は考えられる限り最高の時間でした。」
「うまくいった最大の理由はチームの人々と、そして校長先生だったと思います。現在、学校はずいぶん変わっていることと思いますが、その時には派手ではないがしっかりとした校長に恵まれました。チームの方々はサムがきちんとできるかどうか、いつでも気をつけていてくれました。成績はほかの子供たちについていっていましたし、はっきり言えばほかよりも上でしたから、柔軟な態度で、何かやるにしても違ったやり方を探し、一方的な見方はされませんでした。本当にありがたいことでした。」
「O&M(定位・歩行)の重要さは学校生活でも同じです。大したことには聞こえないかもしれませんが、本当に大切なことだと思います。ほとんどの人たちはIEPを年に一度受けるようですが私の場合は1年に4回受けるようにしました。チームでことにあたるとはいってもいつでも一緒というわけにはいきませんから、これは重要なことだと思います。たとえ会合時間は短くても、RTV,補助の先生、両親とO&M担当者は参加するべきです。何が起こっているのかを知っておく必要があるからです。学期に一度であれば1時間でよく、2時間の必要はありません。ともかく、これはやってよかったと思っています。」
ここで理解しておかなければならないのは、子供の教育の面で、両親がいまや要求されている役割とその程度である。
「....さて、ここで私はよりはっきりと申し上げたいことがあります。乱暴な言い方かもしれませんが、専門のスタッフの方々は、医師の方、教育関係の方、どなたも彼は自分の子供同様といわれますが、彼はあくまで私の子供であり、一緒に生活しなければならないのです。しかしスタッフの方々はそうではないということです。彼らは仕事をやめてここを去ることができますが、私は死ぬまで、離れるわけには行かないということです。両親とのパートナシップは非常に重要ですが、いつでもあるというわけではありません。両親が情緒的にすぎるといわれることがありますが、それは現実には部分的なものなのです。両親が果たすことができる任務は過小評価されています。」
いま見たように、50年後のいま、ある意味では大きく変わったこともあるが、ほかの意味では何も変わっていないといえる。
現在、緊急な課題としては、リソースをどこまで、どうやって利用するのか、あるいは拡大課程カリキュラムをどのように利用するのか、といったことや高学年学習者の数の減少、RTVの数(人数比)、スペシャリスト訓練機会の増加、そして各種サービスが公平に、よく管理され、一貫したやり方で提供されることなどがある。
インクルージョン教育にとって成功の鍵はつぎのようなものといえる。
それではインクルーシブな社会とはどんなものだろうか? Mにとっては、差別がなく、人権優先の思想を持ち、人々の能力を、どんなにささやかなものであっても、尊重する社会だという。必要に応じて肯定的な行動が取れる社会である。
「筆者は制度としての平等(equity)が必要であると思います。すなわち、その社会を構成する主たる組織体の構成員がみな、“よし、やってみたらどうだい”と言う社会、“どうやったらできるの?”ではなく“やってみよう”という社会である。ここでは判断の基準がちがうのです。」
Mはニュージーランド、アオティアロアをインクルーシブな社会と思うかという質問にこう答える。
「悪くないと思うね。自分の来た道を振り返ってみると長い道のりだった。ずいぶん進歩したとは思うけれども、少しずつペースは落ちてきている。これはニュージーランド自体がもうそんなに豊かな国ではないからだと思う。それに国がだんだんと官僚的になりつつあるから、環境や組織の設計などが大変だろうね。だが我々がやってることはそんなに悪くはないし、政治家連中と十分やりあっていける力も持ってる。自分たちの代表が誰か、わかっているし誰のところへ持ち込めばいいかを知ってる。もっと大きな国ではそうは行かないがね。」
ここではじめに戻って考えてみよう。インクルーシブであってその構成員すべてに機会を提供できる、そういう社会を作りあげるための挑戦をすること、その決意を改めて確認することにしよう。そのためには子供たちや若い人たちに、複雑化し、多様化する文化的、社会的、経済的環境に対する備えをさせる機会を増やす必要がある。
みんなが協調して努力すれば、視覚障害を持つ子供たちに質の高い教育を施し、その結果として意味のある、価値ある人生を送ることのできる教育的、社会的な果実を得られるようにしてやれる。そしてそのことが、彼らも完全な意味でのメンバーとして参画することのできる、許容性ある社会を生み出すことになるのだ。
注1:パーネルロードの盲児施設 http://www.aucklandcity.govt.nz/news/council/200306/29/a07.asp
注2:ステインズビー点字タイプライタhttp://www.aph.org/braillewriters/impstain.htm